坊ブロ「NAM-NAM!!!」7限
観想(かんそう)について
こんにちは!黒潮美遊踊り子、円福寺副住職の
平幡龍正です!
さっそくですが、以前お話しした、「月輪」の記事の中で、
「観想とは、対象物をじっと観ながら、それを自らの頭のなかでもイメージし、自分と仏さまが一体となることを目標とする、真言宗の修行のひとつです。
観想の対義語のようなことばで、皆さまがよく耳にするのが瞑想(めいそう)です。瞑想は目を閉じて考えることなので、観想のような観る対象物はなく、自らの心だけで深く想像します。」
とお伝えしましたが、この説明は間違っていたので、今回は訂正の意味も込めながらお話させていただきます。(「月輪」読んでいただいた方、申し訳ございません。)
では改めて、「観想」とは何か。ひと言で言うなれば、
観想も"瞑想"という修行のひとつ!!
ということです。
瞑想というと、皆さまイメージされるのは座禅だと思います。
座禅とは禅宗という宗派の瞑想であり、それに対して月輪観などは真言宗における瞑想といえます。
月輪観を例にすると、真言宗の瞑想は以下のような段階で行います。
1、ほんの少し目を開いて対象物となる月輪(満月)の掛け軸を観る。
↓
2、目を閉じて、月輪を自分の胸の中に引き入れる。(ここはイメージ)
↓
3、自分の胸の中に月輪がくっきりと見えるようになるまでこれを繰り返す。
↓
4、美しい満月が自らの心そのものであり、綺麗に輝いていると想うことができたら、月輪を掛け軸に返す。
この一連の流れこそが観想であり、またはこの順番だと4番目のように想う行為のことを観想といいます。
つまり、月輪観も瞑想という修行のひとつで、そのプロセスも観想といえるということですね。
この「観」という字には、"観る"のほかに、
"観ずる"(かんずる)
ということを意味しております。
観ずるとは、心に深く想いながら静かに観るということです。
座禅と月輪観との違いは、観る対象物があるかないかです。
座禅は月輪のように対象物を観ることなく、深く静かに心を集中させることであり、
月輪観は、満月を掛け軸などで実際の姿を観ながら、自分の中でもその姿を写し出して深く想うことです。
どちらも、瞑想という修行に変わりはありません。
少し分かりづらくなってしまいましたが、これが正しい「観想」の説明でございました。
読者の皆さまに訂正をお伝えできたところで、次回は「阿字観」について、その続きをお話ししていこうと思います。
最後まで読んでいただいたきありがとうございました。
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